江戸城無血開城のあと篤姫のその後は?場所はどこであった?

江戸城無血開城のあと篤姫のその後は?場所はどこであった?

西郷どん37話は『江戸城無血開城』でした。

 

なほこ

西郷隆盛と勝海舟が成し遂げた歴史的な偉業なんですが、けっこうあっさり終わってしまって、実際はどうだったんだろう・・・というモヤモヤが残ったんですが。

なので今回は、江戸城無血開城の気になる真相を調べてみました♪

 

江戸城無血開城とは?

 

江戸幕府から、新しい日本の政治を作るために1867年に大政奉還をして、天皇陛下の臣下になるという王政復古の大号令までかけたのに、未だに慶喜はそのまま江戸城を明け渡さずに、いることに、討幕派が、城を明け渡せ!慶喜の首を取れ!と、戦を仕掛けようとしたのが原因。

 

江戸幕府の象徴でもある、慶喜が残っているという事は、かつて後醍醐天皇の時代、鎌倉時代(源頼朝)に一度は追いやられたそのトップが、力をつけて、実験を手にした例などを考えると、慶喜を生かしておくことは、危険な爆弾を残したままのようなものと考えたからです。

 

西郷隆盛たちの考えを変えたのは、勝海舟・山岡鉄舟という、徳川を守ろうとした人達です勝海舟らは地位や権力を守ることが目的ではなく、ただ徳川の命を守ろうとしたのです。

 

勝海舟らの説得により、西郷隆盛は、その忠義心に、心を打たれ、1867年3月15日に決まっていた、江戸城攻撃を辞めて、誰の血を流すことなく、話し合いで、江戸城を明け渡すことになりました。

 


 

教科書やドラマなどでは、西郷隆盛と勝海舟が向き合って座っている姿が描かれますが、本当は、あの場には他にも山岡鉄舟などもいたそうです。

 

1868年4月11日、無血開城となったことで、当時100万人とも言われていた町民たちが、巻き込まれなくてすみました。

 

江戸城無血開城を決断された場所はどこ?

 


 
無血開城の場所は、東京都港区芝5-33-8  薩摩藩の屋敷で行われました。

 

現在は、三菱自動車本社ビルのショールームの前に石碑があります。

JR田町駅から徒歩で2分くらいのところなので、ビジネスマンが多く行き来する場所で観光にはあまり向いていないです。

 

ただ田町駅の中に西郷隆盛と勝海舟が話し合いをした時のイメージの壁画があります。

 

なほこ
すこし抽象的な壁画で、分かりにくいかもしれませんが、近くに行った時には見る価値はあると思います。無料ですし。

 

江戸城無血開城のあと篤姫のその後は?

 

篤姫は、結婚した家定が亡くなった後天璋院と名乗っていました、勝海舟・西郷隆盛による江戸城の明け渡しが決まったあと、大奥の最後を見届けた後、家定の母、本寿院と一緒に一橋邸に移りました。

 

大奥を終わらせた天璋院は、大奥の女たちの再就職や縁談に尽力したとも言われています。

 

大奥を出た後は、大奥内では、仲が悪かったとされている和宮とも和解し、和宮の最期には箱根まで駆け付けたけれども、間に合わなかったという話もあります。

(1877年9月7日 32歳没)

 

その時に間に合わなかった気持ちを詠んだ句

「君が齢 とどめかねたる 早川の水の流れも うらめしきか」

 

勝海舟などと、交流もあり収入は薩摩に頼らず、静かに暮らしていたと言います。

その後、千駄ヶ谷の徳川邸で倒れ帰らぬ人となったそうです。(1883年11月20日 47歳没)

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なほこ

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